古道を歩くキーワード
    
   

◆五街道

五街道とは1604年に徳川家康日本橋を起点とした5つの陸上交通路で、全国支配のため東海道中仙道州道中奥州道中日光道中を整備しました。

甲州道中・奥州道中・日光道中は、現在ではそれぞれ『街道』と名称がついていますが、本来は東海道と一緒で『海道』の文字が使われてた様ですが、海はないのに海道というのもおかしいということで道中と呼ばれるようになったと言う説もあるそうです。


◆宿場町の施設

●本陣・脇本陣

元々本陣は戦場での大将の本営のことを言い、武将の宿泊する所を指すようになりました。大名、旗本、公家、役人、勅使など公用で旅するときの宿舎で、 本陣を勤める者は宿役人の問屋や村役人の名主などを兼ねている者が多く、そこの主人は苗字帯刀を許されて、門や玄関・上段の間などを設けることが特権のようになっていました。

脇本陣はその予備で、泊まりきれない場合や川留めで重なった場合など割り振られたりしました。一般客も止まることもでき、本陣よりも1ランク下がるものでした。一般客の取れない本陣は経営的には苦しく、副業をしている所も少なくは無かったようです。


日野宿・本陣


●旅籠・木賃宿

共に一般の旅人の宿舎で、旅籠<はたご>は食事が出された宿のことです。本来、旅の時に馬の飼料を入れる籠のことで、それが旅人の食糧等を入れる器と転じて、宿屋で出される食事の意味になり、食事を提供する宿屋のことを呼ぶようになりました。

木賃宿<きちんやど>は、自炊する今でいう素泊まりの民宿でした。木賃の『木』は薪の事で、薪代金の宿と言うことから木賃宿と呼ばれました。


吉野宿・旅籠『ふじや』


●間宿

間宿<あいのしゅく>は、各宿場町の間の茶屋などが開き、集落となり規模が大きくなったもので、本来は宿場保護のため間宿での宿泊は禁止でしたが、幕末になると大名の財政も苦しくなり、経費節減のため間宿を利用することが多かったそうです。


大椚宿


●問屋場・高札場・木戸

問屋場<といやば>は、宿場で人馬の継立・人足や馬の補充のため業務などをを行うところで、現在でいう運送業のようなことを扱っていました。

高札場<こうさつば>は、禁制や通達事項などの法令を板面に記して往来に掲示する、いわば幕府・役所などからの掲示板のようなものです。交差点(辻)に設置されることが多く、札の辻とも呼ばれている所もあります。

木戸は、宿場町の出入口に門を設置して、番所を設けて夜間や緊急時の人の出入りを規制していました。


四谷大木戸跡


府中宿・問屋場跡


府中宿・高札場


◆道中の施設・名称

●関所

交通の要所に設置された徴税や検問のための施設で、現在のパスポートにあたる通行手形を提示して、通行の許可を出していた所でした。特に入り鉄砲出女と言われるほど、江戸への鉄砲の持ち込みと、江戸からの女人の出国は厳しく取り締まられていました。また人質の大名の妻子が国元へ逃げ出すのを防ぐポイントでもありました。


小仏関跡



●見附

見附<みつけ>とは、城門や集落の出入り口を見張るための場所のことです。特に江戸城の周りには、江戸城三十六見附と呼ばれた厳重な警備をしていたそうです。


日比谷見附跡


四谷見附跡


村山集落・西見附


●一里塚

一里塚は街道の両側に五間(約9m)四方・高さ一丈(約1.7m)の土を盛り、その上に榎・松などの樹木を植えたもので、江戸幕府により五街道整備の際に本格的に設置しました。

1里(約4km)おきに設置をして、行程の目安や運賃の設定、日よけや雨宿りなどの休憩場所にも使われました。


万願寺一里塚



●枡形

枡形<ますがた>とは、見附や宿場町の手前に設置されたクランクのの様に直角に曲がる道のことを言います。これは直角に敵の侵入を阻むために作られ、甲州街道なら四谷見附や八王子宿などで見られます。また大名行列の際に、大名同士が鉢合わないようにする役割もあり、物見を先に放ち、鉢合うときには格下の大名は寺などに一時待避するようにしていたそうです。


●追分

追分<おいわけ>とは、五街道や脇街道の分かれ道・分岐点のことです。追分には進行方向や目的地や距離などを刻んだ道標が設置され、茶屋などが開かれて団子やお茶で一息つけていたそうです。甲州道中の新宿追分『追分団子』、東海道の江尻宿『追分ようかん』など振舞われていました。


新宿・追分団子


◆石造物

●道祖神

道祖神<どうそじん>は路傍の神で、石碑や石像・自然石などの形態で村の守護神・交通安全の神として祀られています。全国的な広い分布をしていますが、特に関東・甲信越に多く、各地で賽の神・障の神など様々な呼び名があります。元々は中国の神でしたが、日本に伝来してからは民間信仰の神である岐の神と習合しました。さらに、岐の神と同神とされる猿田彦神と習合したり、地蔵信仰と習合したりしました。


下吉田東町の道祖神


●馬頭観世音

馬頭観世音<ばとうかんぜおん>は、荷の運搬や農作業などに馬が使われることが多く、病気や事故で死んだ馬を供養するのに建てられたもので、道中安全や五穀豊穣などの信仰も合わせて行われるようになりました。信仰は奈良時代頃から始まったと考えられていて、江戸時代後半から盛んになったと言われています。像様のものは頭上に馬頭を戴き、三面三目八臂とする像が多く、その他にも一面二臂、一面四臂、三面二臂、三面六臂、四面八臂の像容も存在します。


都留市中野の馬頭観世音塔


●廿三夜塔

月待と呼ばれる特定の月齢の夜に講中が寄り合って飲食を共にして、月の出を待つ行事が催されました。十五夜・十七夜・十九夜・廿三夜なとの月待があり、その中で最も盛んだったのが廿三夜待で、陰暦二十三日の夜に願い事を叶えるために月の出を街ちをして、その進行として建てられたのが廿三夜塔でした。


都留市中野の廿三夜塔


●常夜燈

常夜燈<じょうやとう>とは夜間に火を灯して、旅人の便をはかるための主に石で作られた灯籠で、村や宿場町の出入り口や、神社の参道などに多く見られます。追分の常夜燈には道標を兼ねている物もあり、渡し場では灯台にもなっていました。

秋葉山常夜燈と記された物は、『火伏せの神』として祀られた秋葉山信仰によって建てられた常夜燈です。


駒橋の秋葉山常夜燈


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